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| By 東海大学医学部長・黒川清とゆかいな仲間たち | |||||
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| 死を待つ患者さん達にとって、医師は何ができるのか どのような役割が期待されているのでしょうか |
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| セッションのオリジナルタイトル/The End of Life and Euthanasia |
| ■医者と社会のかかわり | |||
| ――: | 私自身、正直に言って「自分がもうすぐ死ぬ」ということにちゃんと向き合えるかという自身がないのです。告知をしてほしくないというのは嘘になるのかなと思うのですが、でもどこかに逃げ道として希望をもちつつ、心の奥底ではだめかな? とも思いつつ、最期をむかえていく。もしかしたら、そっちを望んでしまうかもしれないので、自分自身がこうしてほしいということがわからない状態で、告知する、しないということに対して「私は○○派です」というのは言えないのです。 ただ私は会社で営業をやっていたのですが、そうするとやはり主役はお客様です。そして今度場所が病院になったとしても主役はやはり患者さんです。お金払って、この病院にかかって、私のところに受診しに来てくれる。主役はお客様、患者さんなので、告知する、しないに正解はないのかもしれませんが、この患者さんにとって一番いいのはどうしてあげることだろうと考えて、判断して、よりいいと思う方法を選んで、それを選んだ以上はそれに対してボランティアやいろいろな人にかかわってもらったり、家族をサポートしたり、とにかく最善を尽くすことしかない、って思います。 |
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| 黒川: | 今は医療というのも一つの経済活動として社会に組み入れられちゃっているんだけど、今みたいな発言をされると、医者というのはその知識と技能をサービスとして、そこに対価があって社会が購買するものであると。営業で大切なのはお客さんだということは、それはよくわかります。しかし、本当にそれが医者と社会のかかわりかな? っていうと、ちょっと違うんじゃないかと思うこともあるんじゃない? つまり向こうがこれをやってくれ、あれをやってくれと要求すればなんでも受けなくてはいけないかというと、そういうわけにもいかない。というのは、こちらも自分の家族もいるし、自分の人生もある、といったらどうするか。 | ||
| まあ、ホモサピエンスという現代人というのができてからまだ10万年しか経っていないんだけど、農耕民族といっても1万年前なんだけど、その頃にいわゆる文明が出現してきた。しかし、人は生きていれば必ず死んでいく。死んでいくものへの気持ちっていうのは動物と人間ではかなり違っているわけ。例えば解剖慰霊祭はあると、やはり遺族とかは亡くなった人の名前を見ているだけで涙している人がたくさんいる。そういうのは動物にはないでしょ。そういう人間の感情は常にあるから、やはり人間が社会生活を営むようになってから、お医者さんという役割をしていた人たちが必ずいたわけだよ。みんな辛いんだから、助けてくれる人っていうのがお医者さんのもとなんだから。そしてだんだん近代になっても「何が必要か」というとお医者さんと牧師さんだよ。今の人間の基本的な倫理とか、死生観を左右するようなものっていうのがでてきたのは1000年以上前。でもここ1000年何も変わっていないんだよ。そう思わない? だってユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、そして孔子、そのほか何がある? 人の、そういう、倫理じゃないなあ、宗教というか、生きるか死ぬかというときに「すがりたい」という気持ちを支援するようなもの、ここ1000年変わっていない。新しいもの何もないじゃない。せいぜいオウムか(笑)。そう、おかしな話。あとはアーユルヴェーダとか。そのぐらいだよ。そのぐらいで、もう人間の考え、死生観ってだいたい決まっちゃうんだよ。 そういうときには常にお医者さんという仕事があるんだよ。ヨーロッパだけでなく東洋もそうだと思うんだけど、コミュニティの中でお医者さんという何か満足をさせてくれる人と、牧師さんというかお坊さんというか、チャリティーじゃないけど、みんなにとってまったく神聖なものみたいな役割をしている人たちがいるわけ。そしてこのひとたちの暮らしというのは別に経済活動をしているわけではない。だって経済活動をするようになったのはもっと最近の話だから。それでお医者さんにはお礼はいくらあげたらいいと思う? それはオナラリアという「お礼」なんだよ。古代ギリシャあたりでは切ったり貼ったりするかもしれないけど。なんかまじないみたいなことをする人もいたし、まじないでお薬をくれたかもしれないし・・・なんだか近代科学からみればわけがわからないことも多いんだよ。ヒポクラテスの時代もいろいろと患者さんの家に行ったりするわけ。でも貧乏な人たちはお金なんて出せないわけ。 日本でも、明治になるまでは漢方医。そういう人たちは、病人を診て、薬を処方する。どうしてその人たちがお金を稼ぐことができる? できないじゃない、そんなの。そういう性格の職業ではないですからね。だからお医者さんが背中に籠をしょって往診とかで行くと、患者さんがそこに自分がありがたいと思った分だけお金を入れる。これがオナラリアなんです。つまり治らなければくれないかもしれないけど、治らなくても触ってくれただけで十分にありがたいかもしれない。もちろん入れるふりをしている人もいるわけだ。だってあげたいと思っても何もないんだから、貧乏な人は何もくれない。それでいいんだよ。50年前の日本では3%しか大学に行けない世の中でお医者さんになった人だって何をしていたかっていうと、うちもたまたま代々お医者さんなんだけど、昔は保健なんてないんだから。おじいさんとかおばあさんとかが診察に来て、薬とかあげてもお金なんてないからどうする? だからそういうときには別にお金は請求しないし、請求書も送らない。あの頃は東京の周りもほとんど畑で取れた野菜とか卵とかいろいろなものをお礼で持ってくるわけ。それがお医者さんの暮らしだったわけ。だから昭和36年に今の健康保険制度が制定されるまでは「自由診療」だったけど、自由診療といっても結局何もないわけだよ。だから今みたいなその「お客さん」という考えはいいんだけど、ちょっと違う関係ではないのかな? という気もするね。 |
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| ――: | そういう意味じゃないんです。お金を払うからやるとか払わないからやらないとかではなくて・・・。 | ||
| 黒川: | わかるけど。 | ||
| ――: | 主役は自分や医療関係者ではなくて、あくまでも患者さんであるということを言いたかったんです。 | ||
| 黒川: | もちろんわかる。だけど要求に対してどこまで応えるかというのは難しいよね。 | ||
| ――: | 先生、多分先生もご存知の方だと思うんですが、私の知り合いで神父だったのですが、医師になりたくてよその大学の医学部に学士制度で入った人がいるんです。 | ||
| 黒川: | こないだ会った人? | ||
| ――: | そうです。先生と文部省でお会いになったっておっしゃっていたんですが、まだ30代で。 | ||
| 黒川: | 「10年外にいた」って、言っていたひと? | ||
| ――: | そうなんです。神父としてエリートコースを歩いてきたらしいんですが、やっぱりそれだけだとどうしてもフォローできない部分があって医学部を受験したようです。まさになんか先生がおっしゃっているみたいな・・・。だけど彼の場合には「もう神父には戻れないかもしれない」とか言ってましたけれど。医者というのはそういう部分が絶対あると思うんですが、ただ限界もありますよね。 |
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| 黒川: | 限界はあるんだよ。だけどそれでもいい。 | ||
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